第三章 「アイドル」の心理的戦略①

 

こんばんは〜!ご無沙汰しております。

 

ホラ、気を抜けば、また放置したよ!!!!!

 

とても中途半端なところでポイってしてました。

 

まず完全に自己満足なうえ、誰に向けて書いてるん?って話なんですけども。

 

せっかくね、卒業論文を記事にすると決めたのでちゃんとやり遂げようとは思います。

 

最近、改行と語尾の整理しかできなくなってきているのですが、それでもまだ読みやすくはなってるのかな......

 

 

まぁいいや!とりあえず第三章にレッツラゴー☆

 

 

第三章では、「アイドル」の心理的戦略について書いていこうと思います!

 

第一章で説明した日本の「アイドル」を身近な存在である他己と捉えて、その他己を承認することにより自己承認の願望を達成したかのように感じる心理的戦略について追求していきます。(言ってること難しい?)

 

まず第一節では、自己を投影する者としての「アイドル」について。

 

次に第二節では、「アイドル」を自分の理想を引き受けてくれる他者である理想化自己対象として捉えて、また「アイドル」にとっての「ファン、ヲタク」を鏡映自己対象として捉えて、「アイドル」と「ファン、ヲタク」の間でもたらされている心理的作用について詳しく説明していこうと思います。

 

そして、第三節では、なぜ「アイドル」のファン同士の交流が行われるのかについて。

 

 

章が進むにつれて、ちょっと難しい話をしだすのですが、ここが私的には面白いところです。

 

まぁ例にならって、長いのでこれも一節ずつ分けて載っけます!

 


第一節 自己を投影する「アイドル」

 

前章(第二章)で述べたように、近年における日本の「アイドル」は、単なる歌やダンスのスキルを売りにしているわけではなく、「アイドル」自身の〈物語〉をCDやコンサート、舞台などの可視化された〈モノ〉を通して〈小さな物語〉として消費者に提供しています。

 

そのためには、「アイドル」の〈物語〉は消費者である「ファン、ヲタク」を魅了し、共感されなければなりません。以下、香月孝史の『「アイドル」の読み方』より引用です。

 

 


"『スター誕生!』に関わっていた阿久悠が「アイドル」となる人物の選抜にあたって「下手を選びましょう」と提案し、「上手そうに思える完成品より、未熟でも、何か感じるところのあるひと」を求めたことは、当初、阿久にその意図がなかったにせよ、「能力がない存在」として「アイドル」というジャンルが位置づけられる萌芽でもあった。あるいは80年代に「楽曲」よりもタレント自身が重視されるものとしてあったおニャン子クラブなどの例でもわかるように、どの時代であっても、芸能ジャンルとしての「アイドル」にはそれぞれの時期で、楽曲上演にあたって一般的な意味での技術力の高さが絶対的な指標とされてこなかった。第1章で見たように、2000年代のアイドル評論でアイドルが「「魅力」が、「実力」に優っているパフォーマー」と説明されるのも、技術的な裏づけを必要としないことが前提になっているからである。アイドルとは、音楽実演のスキルを絶対的に求められる者としては存在してこなかったのだ。"

 

 


こういった経緯の中で、「アイドル」という言葉は、その言葉が使われるようになった1970年代当初の「手の届かない雲の上の存在であり、同性を含む幅広い層に共感を与え、愛される存在」という意味を失い、「ファン、ヲタク」と同じ目線、同じ位置にいる「私たちにとって身近な存在」であることが求められるようになりました。

 

人々は手の届かない自分とは違う存在である「アーティスト」や「俳優」という他者よりも、自分に近く手の届く存在である「アイドル」という他者に惹かれて応援をする。

 

それは、私たちが「アイドル」のことを身近に存在する他者として捉え、まるでその「アイドル」を自分であるかのように愛し、応援し、ともに歩んでいると錯覚し、自己承認欲求を満たしている部分があるからなのではないでしょうか。

 

「アイドル」は自己を投影する身近な他者として存在しているのです。

 

 

②に続く......✩.*˚