第三章 「アイドル」の心理的戦略②

 

こんばんは〜。みなさんお元気ですか?

 

あけましておめでとうございます。(今更)

 

いつの間にか年越してました。2019年ですね。

 

今年はどんな1年になるのかな〜。

 

いつもじっとしていられず何かしら予定を詰め込んで、あちこち動き回りまくってマグロのように生きているので、今年はもう少し余裕を持って周りを見ながら生きて行けたらいいなぁ。

 

自分の考えをまとめたり、ブログを書いたり、そういう時間、大切に出来たらいいなと思います。

 

 

さてさて、前置きはこのくらいにして!

 

引き続き文章を崩しながら、載せていきます(*•̀ᴗ•́*)و ̑̑

 

 

 

 

第二節 「アイドル」と「ファン」との間で起きる心理的作用

 

「アイドル」と私たち「ファン」との間で起きる心理作用は、「ファン」にとっての「アイドル」という対象と、「アイドル」にとっての「ファン」という対象の双方で起こっています。

 

まずは、「ファン」にとっての「アイドル」という存在に対して起こっている心理的作用について追及していこうと思います!

 

「ファン」にとっての「アイドル」という存在は、理想化自己対象と言われるものに当てはまるのではと考えます。

 

理想化自己対象というのは、あこがれたり尊敬したりしていると、自分も誇らしくなったり立派になったように感じられるような対象のことを指します。

 

また、「尊敬・崇拝していると、力強さや元気さがみなぎってくるように感じられる対象」「その対象に所属していると自覚すると勇気付けられるような対象」のことを理想化自己対象と呼びます。

 

例を挙げると、幼稚園児や小学生が「うちのとーちゃんすげーんだぜ」と父親の自慢をしますよね。これは親を理想化自己対象として自己愛を満たそうとしているのです。

 

こういった特徴を踏まえると、企業のカリスマ経営者や、宗教団体の指導者なども理想化自己対象になりえます。

 

このように考えると、「アイドル」は「ファン」にとっての理想化自己対象になっているのです。

 

私たちファンにとって、「アイドル」は自分自身の理想を引き受けてくれる存在であり、その「アイドル」を尊敬・崇拝することで自己愛を承認してもらう対象になるのです。

 

「アイドル」達は、しばしば「ファンのみんなを元気にしたい」系のセリフを言いますよね?

 

なぜ「アイドル」が歌って踊ることで、ファンのみんなが元気づけられるのか?といえば、彼女を理想化自己対象にすることで自己愛が満たされるからなのです。

 

 

次に、「アイドル」にとっての「ファン」という存在に対して起こっている心理的作用について追及していきます。

 

「アイドル」にとっての「ファン」という存在は、鏡映自己対象と言われるものに当てはまると考えます。

 

鏡映自己対象とは、自己対象のなかでも、賞賛や承認を介して、自分自身が誇らしさや力強さを感じさせてくれるような対象を指します。

 

自己顕示や自己表現に対しての賞賛や承認のリアクションを介して自己愛や一体感を充たしてくれる存在が鏡映自己対象に該当するのです。

 

幼少期の子どもにとっての母親や、自分のことを認め信頼してくれる仲間などが身近な鏡映自己対象になりえます。

 

このように考えると、「ファン」は「アイドル」にとっての鏡映自己対象になっているのです。

 

「アイドル」にとって私たちファンは、彼女らの「アイドル」人生における自己顕示や自己表現であるライブや握手会などの「現場」を常に追いかけ続け、熱心に応援し、認めてくれる対象なのです。

 

「ファン」が「アイドル」を自らの理想化自己対象として、「アイドル」がしばしば口にする夢を自分の夢であるかのように捉え、熱心に応援しその夢に向かっている「アイドル」のリアルな姿を見ることで自己愛を充たす一方で、「アイドル」は「ファン」を自らの「アイドル」としての夢や努力を認めてくれ、「アイドル」を演じる自身に誇らしさや力強さを与えてくれる鏡映自己対象として捉え、コンサートや握手会などの「ファン」との交流をはかり、その声援を受けることで自己愛を充たしているのです。

 

このように、「アイドル」と「ファン」は、お互いの自己愛を充たしてくれる対象として存在し、相互の心理的作用によって「アイドル」ビジネスは成り立っているのです。

 

 

③に続く......✩.*˚

 

 

第三章 「アイドル」の心理的戦略①

 

こんばんは〜!ご無沙汰しております。

 

ホラ、気を抜けば、また放置したよ!!!!!

 

とても中途半端なところでポイってしてました。

 

まず完全に自己満足なうえ、誰に向けて書いてるん?って話なんですけども。

 

せっかくね、卒業論文を記事にすると決めたのでちゃんとやり遂げようとは思います。

 

最近、改行と語尾の整理しかできなくなってきているのですが、それでもまだ読みやすくはなってるのかな......

 

 

まぁいいや!とりあえず第三章にレッツラゴー☆

 

 

第三章では、「アイドル」の心理的戦略について書いていこうと思います!

 

第一章で説明した日本の「アイドル」を身近な存在である他己と捉えて、その他己を承認することにより自己承認の願望を達成したかのように感じる心理的戦略について追求していきます。(言ってること難しい?)

 

まず第一節では、自己を投影する者としての「アイドル」について。

 

次に第二節では、「アイドル」を自分の理想を引き受けてくれる他者である理想化自己対象として捉えて、また「アイドル」にとっての「ファン、ヲタク」を鏡映自己対象として捉えて、「アイドル」と「ファン、ヲタク」の間でもたらされている心理的作用について詳しく説明していこうと思います。

 

そして、第三節では、なぜ「アイドル」のファン同士の交流が行われるのかについて。

 

 

章が進むにつれて、ちょっと難しい話をしだすのですが、ここが私的には面白いところです。

 

まぁ例にならって、長いのでこれも一節ずつ分けて載っけます!

 


第一節 自己を投影する「アイドル」

 

前章(第二章)で述べたように、近年における日本の「アイドル」は、単なる歌やダンスのスキルを売りにしているわけではなく、「アイドル」自身の〈物語〉をCDやコンサート、舞台などの可視化された〈モノ〉を通して〈小さな物語〉として消費者に提供しています。

 

そのためには、「アイドル」の〈物語〉は消費者である「ファン、ヲタク」を魅了し、共感されなければなりません。以下、香月孝史の『「アイドル」の読み方』より引用です。

 

 


"『スター誕生!』に関わっていた阿久悠が「アイドル」となる人物の選抜にあたって「下手を選びましょう」と提案し、「上手そうに思える完成品より、未熟でも、何か感じるところのあるひと」を求めたことは、当初、阿久にその意図がなかったにせよ、「能力がない存在」として「アイドル」というジャンルが位置づけられる萌芽でもあった。あるいは80年代に「楽曲」よりもタレント自身が重視されるものとしてあったおニャン子クラブなどの例でもわかるように、どの時代であっても、芸能ジャンルとしての「アイドル」にはそれぞれの時期で、楽曲上演にあたって一般的な意味での技術力の高さが絶対的な指標とされてこなかった。第1章で見たように、2000年代のアイドル評論でアイドルが「「魅力」が、「実力」に優っているパフォーマー」と説明されるのも、技術的な裏づけを必要としないことが前提になっているからである。アイドルとは、音楽実演のスキルを絶対的に求められる者としては存在してこなかったのだ。"

 

 


こういった経緯の中で、「アイドル」という言葉は、その言葉が使われるようになった1970年代当初の「手の届かない雲の上の存在であり、同性を含む幅広い層に共感を与え、愛される存在」という意味を失い、「ファン、ヲタク」と同じ目線、同じ位置にいる「私たちにとって身近な存在」であることが求められるようになりました。

 

人々は手の届かない自分とは違う存在である「アーティスト」や「俳優」という他者よりも、自分に近く手の届く存在である「アイドル」という他者に惹かれて応援をする。

 

それは、私たちが「アイドル」のことを身近に存在する他者として捉え、まるでその「アイドル」を自分であるかのように愛し、応援し、ともに歩んでいると錯覚し、自己承認欲求を満たしている部分があるからなのではないでしょうか。

 

「アイドル」は自己を投影する身近な他者として存在しているのです。

 

 

②に続く......✩.*˚

 

 

第二章 「アイドル」の営業戦略③

 

 

おはようございま〜す!!!

 

みなさん起きてますか?(やかましい)

 

またまた少し期間があいてしまいましたが、続きを載せていきたいと思います。

 

しかし、最近暑いですねぇ。もう夏ですねぇ。

 

そんなことは良いんだ。早速本編にいきまっしょい(*•̀ᴗ•́*)و ̑̑

 

 

 

第三節 物語マーケティングと「アイドル」

 

さてさて、第一節、第二節では、〈物語〉を利用した消費についての説明をしてきました!

 

ここでは、「アイドル」による物語マーケティングについてさらに詳しく追及して行こうと思います。

 

先ほど(第二節です)、商品間の明確な序列が性能差のみで判断することがなくなったと言いましたが、一般の商品(例えば携帯電話やカメラなど)であれば、ごく僅かな性能差を見出し、それを判断材料として商品を選択することがまだ可能です。

 

しかし、消費者が「アイドル」を性能差で選ぶことは極めて少ないのではないでしょうか?

 

なぜかというと、CDやコンサートなどの商品を選ぶ基準として、ただ単に歌やダンスのスキル、音楽の質などを求めるのであれば、「アイドル」ではなく、「ミュージシャン」や「ダンサー」を消費の対象として選べば良いから。

 

それでも人々が「アイドル」を応援するということは、「ファン、ヲタク」と呼ばれる消費者たちが「アイドル」が提供する、その〈物語〉に惹かれるかどうかで〈モノ〉を選択し、消費しているということなのだと思います。

 

よって、「アイドル」消費においては「アイドル」自身の人生、成功まで道のりなどの背景が描かれている〈物語〉の要素が非常に重要視されているのです。

 

 

「物語の法則とは、主人公をめぐる「越境」→「危機」→「成長」→「勝利」という流れ」5と山川は自書の中で述べています。

 

「アイドル」の語る〈物語〉として、最も重要な要素はこの物語の法則なのです。

 

つまり、主人公に環境変化が起こり、その―ときには有力なパートナーに出会い―危機を逃れ、困難を克服し成長し、目的を達成し報酬を得る、というストーリー。

 

このストーリーに則って、「アイドル」は物語られていくことになります。1990年代のアイドルを例に挙げると、「モーニング娘。」がまさにこの物語の法則を則った「アイドル」だと言えますね!

 

普通の女の子たちがオーディション企画「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」に応募し、これに落選する。(「越境」、「危機」)

そしてデビューのための条件として5日間以内で5万枚のCD売り切りを目標に活動をし、その内容がTV番組化され放送された。(「成長」)

その努力の甲斐が実を結び、見事にデビューをする。(「勝利」)

 

そして、モーニング娘。はデビュー時だけではなくメンバーの入れ替えなどにより、事あるごとに物語が付与されていくことになります。こうして、モーニング娘。に関係する商品が継続的に消費者の手に取られることになっていくというシステム。これこそ〈物語〉の価値なのです。

 

 

しかし、「アイドル」の生み出す〈物語〉は必ずしも「アイドル」である彼女ら自身の人生そのものではありません。

 

むしろ、「アイドル」の〈物語〉とは、彼女ら自身の人生ではなく「アイドル」を売り出すプロデューサーによって意図的に作り出された、彼女らが演じている「アイドル」というもう一人の少女の〈物語〉なのです。

 

すなわち、「アイドル」という〈物語〉を持った商品は、プロデューサーによって生み出された〈虚像〉であり、決して彼女ら自身の〈実像〉が反映されているものではないということです。

 

そのことを消費者である「ファン、ヲタク」は十分に理解しているはずなのに、それでも、〈虚像〉である「アイドル」を演じているのは、彼女ら自身であり生身の人間であり、テレビから、コンサートから、握手会から得る情報を組み合わせながら、「アイドル」という〈虚像〉から見え隠れしている彼女ら自身の〈実像〉にたどり着こうとするからなのではないでしょうか?

 

彼女らの演じる「アイドル」の真実を、消費者は求めているのです。

 

 

第三章に続く......✩.*˚

第二章 「アイドル」の営業戦略②

 

こんにちは〜。

 

みなさんお元気ですか?私は元気です。

 

最近は時間を見つけて、少しずつポチポチと論文を分割しながら編集しておりました。

 

しかし、論文口調は面白くないと思って文章を崩しているのですが、どうも崩しきれず。。。

 

やっぱりあんまり面白くないかもしれませんが、でも、内容的にはすごく興味深いなと思うテーマなのでぜひ公開したく。

 

ちまちまと後日、語尾など編集するかもしれませんがとりあえずは載せていきます(*•̀ᴗ•́*)و ̑̑

 

載せなければはじまらぬ!!!

 

 

 

第二節 なぜ人々は「物語」を求めるのか

 

第二節では、なぜ人々は消費に「物語」が求めるのかについて書いていこうと思います。

 

その理由として、大塚はこのように著書で言われています。

 

 


 "ところで人が〈物語〉を欲するのは〈物語〉を通じて自分を取り囲む〈世界〉を理解するモデルだからである。ムラ社会に於ける民話、戦前の日本社会に於ける例えば固定教科書で採用された日本神話はそれぞれ〈世界〉の輪郭を明瞭に示すモデルであった。同時にまたこれらの〈物語〉はそこに帰属する人間の倫理や行動を決定するモデルである。いわば人間は〈物語〉に縛られているのであり、その良し悪しは別として〈物語〉に縛られることで安定するのだ。しかし、今日の消費社会ではこういった明瞭な形で人を生涯にわたって縛る共同体が存在しない。確かにわれわれ日本国籍を有するが同時に国家意識は個々人には極めて希薄である。左右それぞれの政治的立場にある少数の人々はこのような考え方に異議を唱えるだろうが、われわれの自意識は良くも悪くも「なんとなく日本人」以上の国家意識を持たない。"

 

 


 大塚英志が述べるように、戦下の日本では「日本人はこうあるべきだ」という模範の姿が教科書やラジオのような媒体で決められていて、それに基づいて日本人は自分の生きる〈世界〉を捉えていました。

 

人々は少なからず〈物語〉によって支配され、「日本人」という括りに縛られていたのです。

 

さらに、戦後の日本は高度経済成長期を迎え、人々はみな「豊かさ」を求めていました。特に、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目は『三種の神器』と呼ばれ、努力すれば一般の家庭でも手の届く夢の商品であり、「新しい生活」や「豊かさ」の象徴であり、人々はみな同じものを求め消費をしていた時代でした。

 

しかし、日本の経済が発展していくとともに、商品をそのものの性能による価値決定をすることが少なくなっていったのです。

 

鈴木謙介は、日本の経済発展の歴史に言及しながら、こう言われました。

 

 

「社会のある程度の層が人並みの水準にたどり着くと、「みんなと同じモノを所有して人並みの生活を送りたい」という〈物語〉の意味が希薄になります。(中略)人々が豊かさを求めた時代の後にやってくるのが「感性」の時代です。」

 

 

高度経済成長の時代にあった「豊かさ」というモノサシが通用しなくなってゆき、人々が「食うのに困る」時代ではなくなっていきます。

 

そうして、代わりにやってきたのは、糸井重里の有名なコピー「ほしいものが、ほしいわ」に代表されるような、商品間の明確な序列が失われてしまった〈世界〉です。

 

このように商品間の明確な序列が商品の性能差のみで判断することができなくなった時代の中で、消費者たちは商品をイメージ、すなわちその背景にある〈物語〉で選択するようになっていったのです。

 

 

③に続く......✩.*˚

 

 

 

第二章 「アイドル」の営業戦略①

 

またまた、ご無沙汰しております。

 

いつの間にやら、あっという間に梅雨の時期ですねぇ。

 

みなさんは、いかがお過ごしですか?

 

 

すでにもう前回どこまで行ったんだよ?って感じだと思いますが、ここで軽く復習。

 

前回の第一章では、日本のアイドルとは何ぞや?そして、海外と比較してみると日本のアイドルにはこういう特徴があるよね〜ってことを書いてました。(ザックリ言うと)

 

そして、今回は第二章に突入いたします(*•̀ᴗ•́*)و ̑̑

 

 

第二章では、「アイドル」の営業戦略について物語消費の説明を交えて追求していこうと思います!

 

第一節では、まず「物語消費」とは一体何ぞやを説明して、第二節では、何故消費には「物語」が求められるのかについて迫っていこうと思います。

 

そして、第三節では、物語マーケティングと「アイドル」の関係性を調べてみたのでそれについて。

 

そんでもって今回も長いので、一節ずつ3回に分けて投稿するつもりです( ◜ω◝ )

 

というわけでまずは、第一節行きまっしょい!

 


第一節 物語消費とは

 

第一節では、「物語消費」について、一体何ぞやと。

物語を消費するということについて大塚は、「ビックリマンチョコレート」を例に以下のように説明しています。

 


"①シールには一枚につき一人のキャラクターが描かれ、その裏面には表に描かれたキャラクターについての「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が記入されている。

 

②この情報が一つでは単なるノイズでしかないが、いくつかを組み合わせると、漠然とした〈小さな物語〉――キャラクターAとBの抗争、CとDに対する裏切りといった類の――が見えてくる。

 

③予想だにしなかった〈物語〉の出現をきっかけに子供たちのコレクションは加速する。

 

④さらに、これらの〈小さな物語〉を積分していくと、神話叙事詩を連想させる〈大きな物語〉が出現する。

 

⑤消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉に魅了され、チョコレートを買い続けることで、これにさらにアクセスしようとする。

 

ビックリマン」が描き出した〈大きな物語〉の具体的な内容に関しては―――〈中略〉―――消費者である子供たちは、この〈大きな物語〉の体系を手に入れるため、その微分化された情報のかけらである〈シール〉を購入していたわけである。したがって、製造元の菓子メーカーが子供たちに〈売って〉いたのは、チョコレートでもなければシールでもない。〈大きな物語〉そのものなのである。"

 

 


「物語消費」とは、実際に〈モノ〉として手に取れる、チョコレートやシールなどのツールを通して、可視化されないその裏に隠された〈物語〉を消費してもらうということをいいます。

 

すなわち、〈モノ〉を通してでしか消費しえない〈物語〉を消費者に提供しているのです。

 

また、大塚は「ビックリマンチョコレート」と「仮面ライダースナック」ではその消費のシステムが決定的に異なることを説明しています。

 

何が違うのか?というと、原作となるTVや漫画などの原作があるかないかという部分。

 

仮面ライダースナック」は、石ノ森章太郎原作の特撮ドラマ「仮面ライダー」という原作が存在し、そのキャラクターを利用して商品に付加価値を付けるという、他の商品との差別化を図る場合の最も古典的な手法であり、珍しくともなんともないありがちな販売方法です。

 

しかし、「ビックリマンチョコレート」には「ビックリマン」というTVアニメや漫画などの原作が存在したわけではなく、「シール」そのもののみが物語を有するパーツの一部すなわち〈小さな物語〉であり、〈大きな物語〉を形成する〈モノ〉となっているのです。

 


このように考えてみると、現代のアイドルの経営戦略には「物語消費」が欠かせないことがよく分かるかと思います。

 

その一例として分かりやすいものを挙げると、アイドルのCDの販売。国民的アイドルと称されるAKB48のCDの販売戦略を物語消費として捉えて説明していきましょっい!

 


"①CDには、握手会の参加券がついていて、その「アイドル」との触れ合いを通して「アイドル」自身の情報を知ることのできる場所と機会を与える。

 

②握手会などに参加することで、メディアだけでは知りえない「アイドル」の人間性などを少しずつ知ることができ、回数を重ねるごとに、その「アイドル」自身の全体像を想像できるようになっていく。

 

③「アイドル」の想像していない一面を見つけるたびに、ファンの消費は加速する。

 

④さらにこの情報を組み合わせていくと、「アイドル」の人生という〈大きな物語〉が現れていく。

 

⑤ファンはその「アイドル」の人生という〈大きな物語〉に魅了され、「アイドル」に対する消費を続ける。"

 


上記のように、ビックリマンの方程式に沿って、「アイドル」ファンによるCD消費も「物語消費」として捉えることができるのです。

 

「アイドル」には決められた原作というものは存在しません。「アイドル」を応援することで得られる情報の断片、すなわち〈小さな物語〉を〈大きな物語〉の一部として消費者に提供しているというわけです。

 

そして、その〈小さな物語〉に消費者、いわゆる「ファン、ヲタク」は夢中になり、〈大きな物語〉を求めて消費し続けるという仕組みが成り立っているのです。

 

 

②に続く......✩.*˚

 


 

第一章 日本のアイドルとは③

 

こんばんは~みなさまお元気ですか?(誰に向かって?)

 

完全に自己満足で載せてる記事なので誰も待っとらんだろう。って感じですが、一応ご挨拶します。

 

GW真っ只中ですね。9連休となるとゴロゴロして何もしない1日が発生します。

 

そうすると、たまらなく無駄な1日を過ごしてしまったという後悔と、滅多にない贅沢な1日だから良いんだという言い聞かせの狭間で、頭がグルグルしながら、結局何もしない1日があります。

 

たまには、そんな日もあって、いいよね。

 

 

そして、またまた日があいてしまいましたが、続きを載せて行こうと思います(*•̀ᴗ•́*)و ̑̑

 

 

ではでは、レッツラゴー☆

 

 

第三節 日本の「アイドル」とは

 

 この節では、第一節、第二節で語ってきたことをまとめて、日本における「アイドル」は一体どういったものを指すのかその定義と特徴にせまっていこう!って感じです。

 

第二節で述べたように、日本の「アイドル」は、物語性を持っていて、その物語の一部として「アイドル」はCDやコンサートなどの消費できる「モノ」を提供しています。

 

「モノ」を物語性によって消費することについて、大塚英志は書著である『定本物語消費論』の中でこのように述べています。

 

 

 "消費されているのは、一つ一つの〈ドラマ〉や〈モノ〉ではなく、その背後に隠されていたはずのシステムそのものなのである。しかしシステム(=大きな物語)そのものを売るわけにはいかないので、その一つの断片である一話分のドラマや一つの断片である〈モノ〉を見せかけに消費してもらう。このような事態をぼくは「物語消費」と名付けたい。"

 

 

 つまり日本の「アイドル」は、「アイドル」自身の人生や生き様を〈大きな物語〉としておき、その〈大きな物語〉を微分化して、様々なツールを通して〈物語〉の一部分を切り抜いて売り出しているのです。

 

そのため、日本の「アイドル」は消費者に近い立場に存在しなければならないため、際立って歌唱力や容姿などスキルやスペックが高いことよりも、いかに消費者に近い存在であり、人間味があり、どれだけ「アイドル」という姿のその裏で努力をしているか、という部分が重視されがちなのですね。

 

 

第二章に続く......✩.*˚

 

第一章 日本のアイドルとは②

 

はいはーい、こんにちは。こんばんは、かな?

 

 

安定で気まぐれ更新ですが、引き続きまとめたものを載せていこうかと思います(*•̀ᴗ•́*)و ̑̑

 

 

今回は第二節に突入しますが、またまた長いです。

お暇な方はどうぞゆるりとお付き合いくださいませ。

 

 

 

第2節日本と海外の文化や趣向の比較を通してみる日本の「アイドル」像

 

 日本の文化における「アイドル」の語源となったのは、英語の「Idol」という単語であります。

 

「Idol」の本来の意味は、英和辞書によると「1.偶像。2.偶像《神以外の神像》。3.偶像神。」とされていて、すなわち、不可視な信仰・信心の対象を可視化した絵画や彫刻などの偶像のことを指します。

 

その言葉の転用・発展の結果、アメリカでは「若い人気者」としての意味で、「アイドル」という呼称が誕生しました。

 

しかし、海外、主に欧米における「アイドル」は、日本におけるそれとは全く異なる性質を持っているように思います。

 

日本で「アイドル」といえば、AKB48や嵐ですよね。しかし、海外で「アイドル」といえば、バックストリート・ボーイズやディスティニーチャイルド、最近ではジャスティン・ビーバーマイリー・サイラスなどがそれにあたります。

 

アメリカン・アイドル』というオーディション番組が人気を博し、そこから新たなアイドルが誕生しているのも周知の事実ですが、彼ら彼女らを日本の「アイドル」という枠組みで語るのには少し違和感があります。

 

なぜなら、彼らというのは、日本における「アイドル」という存在ではなく、「ミュージシャン」や「アーティスト」といった存在に限りなく近いのです。

 

海外における「アイドル」は、音楽における実力・スキルがなければ絶対に成功しません。それに対して、日本の「アイドル」は、マルチに活躍はしているが、音楽における実力やスキルが他の人と比べて突出して秀でているわけではないことがほとんどです。

 

では、なぜ海外では音楽におけるスキルがここまで重視され、日本では音楽におけるスキルがなくとも「アイドル」として成功できるのでしょうか?

 

この鍵は、「アイドル」にとって最も重要な「熱狂的なファン」達が、「アイドル」という存在に求めるものの違いにあるのだと思います。

 

海外の「アイドル」のファンたちは、「アイドル」にCDやコンサート、写真集などで目に見えるアイドル自身の容姿やスタイル、歌唱力などのアーティスト性を求め、そこに惹かれてCDやコンサートなどを、「アイドルの提供している一商品」として消費しています。

 

それに対して、日本の「アイドル」のファンたちは、ただ単に容姿やスタイル、歌唱力を評価して応援しているわけではないのです。

 

日本の場合、アイドル自身の人生、例えば「AKB48の総選挙で見事選抜に選ばれ、初めてマイクを握らせてもらえた」などといった、その物語性に惹かれ、「アイドル」を応援し、CDやコンサートなどを「物語の一部としての商品」を消費しています。

 

海外の「アイドル」ファンたちは、「アイドル」を「パッケージ(一商品)」として楽しんでいるのに対し、日本の「アイドル」ファンたちは、「アイドル」を「物語」として楽しんでいるという点が、海外と日本の「アイドル」の有り方に大きな違いをもたらす要因となっているのです。

 

また、欧米においてはキリスト教的価値観により未成年者への恋愛感情が禁忌とされているため、「アイドル」という存在を、大人が楽しむという土壌が成熟していないようです。

 

AKB48 や、ももいろクローバーZのような(これ書いた時は未成年だったけどもう成人してるね)、未成年であり年齢的にもスキル的にも未熟な成長段階にある「アイドル」が誕生しにくいことも、このような社会的背景が影響しているのかもしれませんね。

 

 

③に続く......✩.*˚